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<あらまし>
私が最初に歩き旅を始めたのが東海道であった。この時は、我家の玄関先が京都三条大橋まで本当に繋がっているのだろうかという素朴な疑問からだった。一歩外に出ると、いつも歩いている道がこの時はまったく違った景色に見えた。家の近くに鎌倉街道があり、この道を南下すれば大磯付近で東海道と交わる。ここからが本当の「東海道歩き旅」ということになる。従って、正しくは五十三次ではなく四十五次になった。この時、定年の翌年66歳であった。

歩き旅の初日は、家を出て10キロも歩かないうちにマメができてしまった。日体大の先生は「歩幅はその人の身長から100を引いた数が基準値になる」と話している。私は身長165センチなので、歩幅は65センチになる。ところがこれを忠実に守って歩いたのが良くなかった。彼等は隊列を組んで行進するのでこのような歩幅になるのだろうが、こっちはリュックを担いで歩くのだからそうはいかない。あとでわかったことだが、先を急ぐあまり身体が前のめりになり体重が爪先に掛かり過ぎたのが原因だったようだ。私の経験では、日体大理論の8~90%くらいの歩幅で歩けばマメはできないようである。

東海道を歩いた翌年、広大な北海道にチャレンジした。以下、北から順に日本列島を下りていくことにする。


1)北海道を歩く

出発地点は日本最北端の地、宗谷岬。北海道で一番神経を遣ったのが、やはりヒグマの存在であった。誰もいない山道を一人で歩いていると恐怖感すら覚える。辺りの物音、風で揺れるクマザサの動きなど、全てヒグマが近づいているのではないかと錯覚する。

ちなみに北海道での死者数は、年間でスズメバチ5~7人、自動車事故210人に対し、ヒグマは6年に1人とかなり少ない。しかし、報道では大きく扱われる。
私は道中、ヒグマ、スズメバチ、クルマを三大天敵とみなし、常に注意を払って歩いた。ヒグマとスズメバチには共通点がある。彼らはポカリスエットなど甘い匂いのするスポーツ飲料にかなり敏感だ。特に女性の場合、化粧や香水は絶対禁物。スズメバチなど、たちまち寄ってくる。もっとも山の中で化粧をする人もいないだろう。小池都知事だったらどうするのだろう。

「クマに遭ったら死んだふりをした方がいい」と昔から言われているがとんでもない。これは最も危険な行為だ。第一、そんな度胸を持った人間がこの世の中に何人いるだろうか。後藤又兵衛くらいだろう。言われた通りにやって生還した人の手記を私は今まで見たことがない。
また、クルマはトンネルの中では猛獣に変身する。逃げ場がないことと、自動車が通った時の風圧が予想以上に凄まじいからだ。雨ガッパを着ている時など、内壁にへばりついていないと身体ごと持っていかれる。このようにクルマは、特にトンネルの中でキバをむき出してくる。

留萌から内陸部に入り、岩見沢を通り、苫小牧に抜け、噴火湾沿いに歩き、上磯に着いた。この後、函館には行かず松前をゴール地点とした。北海道に一つしかない街道(=松前街道)を歩いてみたかったからである。北海道最南端の白神岬に立つと、龍飛崎が遠くに浮かんで見えた。

宗谷岬から松前まで、769キロ、121万1千歩だった。28日を要した。


2)奥州路を歩く

本州最初の地は龍飛崎。この真下を昨年3月26日に開通した北海道新幹線が走っている。白神岬から19.2キロの地点。ここ龍飛崎には「津軽海峡冬景色歌謡碑」がある。正面の赤い釦を押すと、石川さゆりの曲が流れてくる。また、日本でただ一つ、階段国道がある。国道ではあるが自動車は通行できない。段数362段、標高差70メートルある。

陸奥湾を左手に見ながら松前街道を南下すると、やがて青森市に入る。ここからいよいよ内陸部に入り八甲田山に向かって山道を歩く。しばらく行くと「歩兵第五連隊第二大隊遭難記念碑」がある。ここは陸軍の雪中行軍で、200人もの死者を出す大惨事が起きた場所だ。近くに土産物屋があるが、100年以上経った今でも亡霊が出て、時々、戸をトントンと叩くそうだ。

この後、奥入瀬沿いに南下し、十和田湖に向かう。さらに進むと、迷ケ平(まよがたい)という自然休養林がある。この辺り、迷いやすいのでこの地名が付けられたのかもしれない。昨年6月、山菜取りに行った人がツキノワグマに襲われ死亡した現場はここから近い。ヒグマに比べやや小型ではあるが、獰猛であることに変わりはない。雨の降る中、周囲に注意を払いがら県道21号線を歩く。周りに民家などまったくない。やっとのことで、田子(たっこ)の町に辿り着いた。着いた途端、張りつめていた緊張がどっと抜けてしまった。

ここ田子はニンニクの産地で有名である。キムチだけでなく、あらゆる食べ物に入っており、子供のおやつにまで入っているとは知らなかった。
この辺りを過ぎると、やっと国道らしき道を歩けるようになった。宿の手配はどうやっているのかとよく聞かれる。青森、盛岡、仙台などの地方都市には「東横イン」等、ビジネスホテルが必ずある。これらのデータをケータイに入れておき予約をする。そうでない所では予め町役場、村役場に電話で2、3軒の宿を教えてもらっておく。近づいたら、直接宿に電話をし予約をする。

奥州路は900キロ以上あるため、福島で一旦切り上げ、春と秋2回に分けた。二本松では昔から有名な菊人形展を見に行った。残念ながら、ここには外国人観光客は一人もいなかった。菊は日本を象徴する花でもあり、海外の人にもっと見て欲しかった。4号線をひたすら南下し日光今市で杉並木街道を歩き、宇都宮、草加を通り、文化の日、日本橋に到着し、翌日自宅に着いた。

龍飛崎から自宅(入間)まで、941キロ、157万9千歩だった。都合35日を要した。


3)東海道を歩く

最初に歩いた東海道はやはり一番印象に残っている。色々ハプニングもあった。名古屋に泊まった宿で、ズボンのポケットにサイフを入れたまま洗濯してしまったのだ。脱水が終わり、乾燥機に入れる時に、はじめて気が付いた。<しまった!>と思ったが、あとの祭り。早速、フロントで古新聞をもらい床に敷き紙幣を並べて乾かした。こんなこと、名古屋に来てまでやらなくても高尾山薬王院銭洗い弁天でやっておけば良かった。福澤諭吉、野口英世、両先生が泣いていた。

また、恐ろしいこともあった。この日は朝から雨で、低気圧も近づいていた。歩くのを中止にしようとも思ったが、宿でゴロゴロしていても、もったいない。雨の中、思い切って外に飛び出した。1キロも行かないうちに風雨がひどくなり、スニーカーの中がグショグショになってきた。傘を差してはいるがまったく役に立たない。横風もさることながら、トラックが容赦なく泥水をはね飛ばしていくからだ。傘も、ビニールと骨がバラバラになってしまった。そのうち、ヴォーンという不気味な音が聞こえてきた。風が高圧線を叩きつけ、振動している音だ。本当に気味が悪い。そして旧東海道鈴鹿峠に差し掛かった。頭上には鬱蒼とした木々が覆いかぶさり、折からの風でギーギーと音をたてている。高圧線の音と混じりあい、辺りも暗く、山賊が出てもおかしくない状況になってきた。そう思い込むと急に恐ろしくなり、200メートルも行かないうちに、前に進めなくなった。何と恐ろしい峠なのだろう。今は、山賊など出るわけがないのだが、木々が大きく揺れ動くと、本当に山賊が襲ってくるのではないかと錯覚する。まったく生きた心地がしなかった。2010年5月23日という日は、一生、忘れられない日になった。

そして三条大橋の擬宝珠が見えた時は、我が家の玄関先は、間違いなく三条大橋まで繋がっていたことをこの目と足とで確認できた瞬間であった。

自宅から京都まで、562キロ、107万2千歩だった。25日を要した。


 4)山陽道を歩く

道中の無事を祈り、西宮神社で参拝をする。この辺り、灘五郷で有名だ。しかし、平成7年に起こった阪神・淡路大震災の影響で廃業に追い込まれた酒造メーカーも何軒かあったそうだ。
東海道には家康を中心とした城が多かったが、この山陽道には様々な武将の城が多く、それだけ乱世の時代だったのかもしれない。特に中国大返しは、その代表的な事件ではないかと思う。

下関に入る前、面白いことがあった。小野田を出て長府に向かって歩いている時だった。一台のパトカーが脇を通り過ぎ、前方で停まり2人の警察官が降りてきた。私はてっきり後ろの方で事故があったのだと思い「ご苦労さんでーす」と挨拶をした。ところがその警察官は「ちょっとお伺いしたいことがあるのですが…」と、こっちに向かってきた。まったくの不意打ちだ。一瞬、<あれ?オレ今日、何か悪いことをしたかナー>と思ったくらいだった。聞くと、私を家出の疑いで調べたいとのことだった。

「リュック担いでスニーカーを履いた人間が、家出なんかしないでしょう」と言うと、「いえ違うんです。最近は身なりの良い人でも家出をするケースが増えているのです」ということで、こっちは身なりは特に良くなかったが、職務質問を受けることになった。後部座席に座らされ、一時的だったにしろ、身柄を拘束された。私の運転免許証を見ながら通信センターと交信しだした。幸い(当たり前だが)家から捜索願は出されていないとのことで、無罪放免になった。もし出ていたら、帰って女房を取っちめてやろうと思っていた。そんなこんなで、無事(?)下関に着いた。

京都から下関まで、652キロ、113万8千歩だった。26日を要した。


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5)九州を歩く
下関を出発し、関門海底トンネルをくぐり、九州に入った。人道は幅4メートルしかないが、れっきとした国道2号線である。目の前に聳え立つ関門橋は自動車専用道路のため、歩行者は通行できない。大分県に寄り、初代城主黒田官兵衛孝高の中津城を見学した。
雨の耶馬渓を歩き、阿蘇山に向かう。大観峰では天気も良く、360度、素晴らしい眺めだった。この後、「阿蘇大橋」を渡るのだが、よもや熊本地震で崩落するとは思わなかった。

球磨焼酎で有名な球磨川沿いに歩く。球泉洞の中に入ると、棚があり焼酎のボトルキープができる。値段は、四合ビンで5年もの1万2千円だった。
大野渓谷のブッシュをかき分け、新燃岳を横に見ながら霧島温泉に向った。この宿では朝から焼酎の試飲をしている泊まり客が何人かいる。
木造としては九州で一番古い嘉例川駅に行く。鹿児島空港から近いため、タクシーが入れ替わり立ち替り来て、運転手自ら駅の説明をしていた。

そして錦江湾に浮かぶ桜島が見えてきた。島が噴火して楽しんでいるのは、私と同じようなよそ者だけらしい。鹿児島では、雨の予報よりも、風向きの予報の方が重要とのことだった。鹿児島に住んでいる人は、しかし、長い間、桜島と共存しているのである。
下関から鹿児島まで、450キロ、74万9千歩だった。16日を要した。

長い長い旅もついに終わった。日本列島を北から南に歩いてきたが、数字では次のようになった。

距離3374キロ、歩数574万歩、130日を要した。延べ6年かかった。


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※詳しくは、本を出版しましたので、是非ご覧になって下さい。

題 名:「列島縦断574万歩」・・・パソコンで検索可能、もしくは書店で取り寄せ
著 者:上野 啓一
発行所:講談社エディトリアル
定 価:本体1,700円+税 (2016年8月25日発行)
ISBN:978-4-907514-58-7