都立武蔵高等学校の歴史 | (1) 校舎の変遷 | 東京都立武蔵高等学校同窓会 公式ページ

(1) 都立武蔵高等学校の歴史-校舎の変遷

四代にわたる武蔵の校舎の変遷を写真でご紹介します。あなたの在学中の校舎は何代目の校舎だったのでしょうか。探してみてください。「えっ?現在の校舎は三代目の校舎じゃなかったの?」とおっしゃる方も多いと思いますが、1940年の開校当時、校舎は中野にありました。
なお、写真の説明など、何分昔のことなので、勘違いや誤りがあることと思います。お気づきの方は、ぜひ同窓会企画広報部HP管理委員会までご一報ください。

初代中野校舎  1940.1~1942.9
1940年、府立第十三高等女学校として設立された当時の校舎は、現在の中央線中野駅から線路の南側を高円寺方面に徒歩10分ほどのところにある、中野高等家政女学校跡の校舎でした。
セーラー服と帽子は、当時の府立女学校共通の制服だったそうです。

二代校舎 現在の校地  1942.9~1963.3

1943年7月、東京都立武蔵高等女学校と改称。その後1948年4月東京都立武蔵女子新制高等学校となり、1949年4月東京都立武蔵女子高等学校、1950年1月東京都立武蔵高等学校と、目まぐるしく校名が改称されました。

この写真は、左側の門柱の看板に「東京都立武蔵女子高等学校」と表示されていますので、1949年~1950年の9ヶ月間の間に撮影されたものと思われます。右の門柱には校名が英文で書かれた看板が付けられています。
左側のヒマラヤスギは、校舎移転の記念樹として、当時の生徒が全員で植樹したものだそうです。また、井戸の前を通って奥まで続く通路は、やはり生徒たちが砂利を運んで整備したと伝えられています。

校庭の南側の松林から見た校舎。戦時中は松林の北側に畑を作り、サツマイモを植えていました。

現存する最古の武蔵校地全景の航空写真。北側にはまだ「新校舎」がなく、「家庭科教室」と「部室小屋」があり、西側の「桜堤団地」の工事も始まっていないことから、1951~4年当時の写真と思われます。

1956年10月19日撮影の武蔵校地。家庭科教室の横に図書館も増設され、二階建ての新校舎も完成しています。
このころまではまだ、周辺には畑が広がり、屋敷林や雑木林が多く残って、校歌そのままの風景が見られました。

桜堤団地が完成し、旧音楽室が焼失したままで、生徒ホールができていますので、1963年当時の校地と思われます。

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