石澤先生訪問記

●山が結ぶ縁

去年の年末のことでした。田無のサルビア歯科に通う道すがら、偶然見覚えのある女性に出会ったのです。ほぼ二十数年ぶりの出会いでしたが、お互いびっくりして立ち止まり、簡単なあいさつを交わしました。彼女はボランティア日本語教師として市庁舎で講座終了後、同僚達と帰る途中だったようで、あまり長い間話しているとお連れに迷惑なので、すぐ別れたのです。その彼女というのは、高島俊恵氏で、武蔵高校時代の同僚の英語教師で、山岳部の行事で白根三山等の合宿に同行をお願いした人なのです。今は結婚されて吉本姓になっています。実は、サルビア歯科の医師の一人である野口いづみ氏も武蔵山岳部1967年卒で日本山岳会の理事でもあり、山の著作も、テレビ出演などもしています。野口医師の治療が終わった後、吉本さんの住所など聞いておくべきだと後悔したのですが、「やまね会」の名簿があることを思い出し、調べてみました。そこで、年賀状をしたためました。その賀状の返事に、熱海の施設にいる石澤先生を訪問しよう、という提案があり、喜んでご一緒することにしました。

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●日本語教師として

東京駅から新幹線「こだま」で熱海までは、長いようで短い時間でした。話題の中心は、武蔵高校時代のことや日本語教師についてのことでした。その時代、一緒に山岳部顧問をしていただいた大角悦子氏が亡くなられたことも聞きました。
当日は晴天ではなかったので、富士山は麓の残雪のみ見えていました。車窓を流れゆく景色を見つつ、今の仕事などについて語り合いました。彼女は数か所でボランティア日本語教師をしています。私も中国で十数年日本語教師をしていましたので、話がそこに向かうのは当然かもしれません。今、吉村氏が悩んでいるのが、中国残留孤児二世と、東南アジア出身で日本人妻として日本で暮らしている人の日本語指導です。二人の学習者に共通しているのが、母国での初等教育がきちんと行われていないので、勉強の仕方が分からないことのようです。母国語による表現も未熟で、また、40歳以上ということもあり、記憶力が落ちていることだそうです。吉本氏は昔は英語に燃えていたが、今一番好きなのは日本語だそうです。

●ゆとりあの郷

やがて列車は熱海駅に到着。駅から目的地の「ゆとりあの郷」までタクシーで15分もかかりません。丘のピーク近くに建てられた、武蔵高校ほどのビルで、熱海市街と、海と、初島、そして遠くには大島、そして房総半島あたりが一望のもとに望まれます。受付に来意を告げると、すぐに石澤先生が来て下さり、先生のお住まいの部屋に案内されました、部屋は65㎡ほどで、十分な広さです。調理もする気なら設備はあるが、90歳の石澤先生は基本的には食堂で済まされます。石澤先生は70歳になられた時に、財産を整理し、この「ゆとりあの郷」に移られました。当時、そして今でも、熱海にこの施設に勝るものは建てられていない、とのことです。昼時になっていたので、我々もその食堂で昼餉を共にしました。先生の部屋から食堂まで100mほどの廊下を通り、エレベーターに乗りますが、先生は廊下の手すりには敢えてつかまらず、ご自分で歩かれました。吉本さんの話では、2年ほど前に訪問した時より、少し弱ったところもあるが、矍鑠たるものだ、とのことでした。

●戦争の影

昼食後は、再度先生の部屋に戻り、おしゃべりに花を咲かせました。先生が奈良高女を卒業したのは9月で、それも戦争のためだったとのことです。卒業後すぐ赴任されたのが武蔵13高女だったそうです。それから、武蔵時代のさまざまな先生の話となりました。生物の関塚先生は特攻隊員で朝鮮におられたそうですし、数学の田原先生は中国大陸を転戦なさり、生物の山梨先生は南方で爆薬が仕掛てある機密書類を持ち歩き、音楽の今井先生はピストルと鶏卵を交換されたそうです。それ以外の先生、そして生徒たちも第二次世界大戦の影響は色濃く残されています。あの戦争がなければ、武蔵高校の先生になられなかった先生も多かったのではないかと思われます。

●学校紛争

武蔵高校にも、いわゆる紛争がありました。当時、石澤先生は改革委員の一人として活躍されました。「真の教育とは何か」ということが問われ、真の教育を目指す運動が展開されました。私も、生徒から、「あなたは何で教師になったのですか」と問い詰められ、「暇があって、山に登れると思ったから」などと返事して顰蹙を買いました。一時は殆どの先生がゼミ形式の授業等をしました。連日の職員会議で、時には23時頃まで会議が続きました。「武蔵の自由」などというのもこういう経過を経て作られていったのではないでしょうか。
自由と同時に、個性的な授業も要求されました。個性的な先生も多かったと思います。化学の杉本先生、数学の三神先生、物理の前畑先生、家庭科の志津先生、体育の高橋先生……枚挙にいとまがありません。石澤先生はいかにも懐かしそうにそれら先生方との交流を回想されていました。そうそう、大菩薩ヒュッテの建設も石澤先生は校長先生をはじめとする方々と尽力されました。

●再見! 石澤先生

あまり長居をしてはお身体に障るだろうと思い、午後4時前に辞去しました。石澤先生は門まで我々を見送って下さり、ちょっとお淋しそうでした。考えてみたら、私が国語の教師になったのも先生の薫陶のお蔭かと思います。武蔵の1年に入った時の国語の担当は石澤先生でした。それまで、武蔵の才媛ばかり相手に授業をされていた先生には、大変なお荷物であったと考えます。石澤先生、本当にありがとうございました。いつまでもご健勝でいらっしゃいますよう。
海岸にバスが差しかかる頃、熱海桜が満開なのが暮色に映えていました。

(文章:今泉 郁夫)