武蔵高校第56回生の想い出と、その後の私――木下隆男(現在77歳)2000年4月1日から2007年3月31日まで7年間、英語科に在職していました。初年度は担任なし。石黒先生(女性)担任の2年F組の人達が新顔(ジー顔?)にもかかわらずとても温かく迎えたくれたのが印象的でした。旧制女子高の雰囲気が残っているような気がしました。担任になったのは翌年に入学した第56回生の3年間だけ。担任団は田中(英語)・菊地(数学・情報)・臼井(美術)・秋山小南(数学)・大沢(倫社)・藤井(国語)・秋山好則(生物)の諸氏でした。私が担任したクラス(1年D組、2・3年H組)は温泉が好きな人が多かったようで、箱根のユネッサ(水着姿の混浴!)や日の出町のつるつる温泉に遠足にいったのを覚えています。担任になった武蔵二年目はまだ旧校舎で、校庭に面した南校舎と北校舎が中庭を挟んで並列していて、二階に南北校舎を繋ぐ渡り廊下がありました。放課後、二階の職員室から1Dの教室に行くときに、この渡り廊下を利用しましたが、そこはダンス部の練習場になっていて、ラジカセに合わせて踊りに熱中している女子の間をすりぬけるのがヒヤヒヤ、ドキドキでした。各クラスには週番がいて各授業が終わるごとに黒板を消したり、日誌を書くのが役目でしたが、2年、3年の担任の時、学期が終わるとその日誌をワープロ入力して『H組学級日誌』という冊子を作ってクラス全員に配っていました。
今でも大事に保存してあります。読み返すとみんな、「こんなことあったっけ?」と忘れていることばかり。若かりし(皆さんも私も)頃の日常生活が目の前に蘇ってきます。
定年退職した後の2007年9月から韓国ソウルの外れにある「崇実大学」という大学のキリスト教学科修士課程に老人留学しました。在学2年目になって担当教授から博士課程に切り替えるよう勧められて結局、2011年の9月まで5年間、ソウルで暮らすことになりました。下宿は延世大学近くにある百貨店裏の外国人相手の下宿でした。博士論文を書いている最中の2011年3月11日、日本の東北地方を大津波が襲って福島の原発が爆発したというニュースが飛び込んできました。韓国ではテレビで流す映像に制限がなかったようで、ショッキングな映像が「これでもか、これでもか」と言うように連日流されていました。毎日、毎日、不安の裡にテレビの前に座って固まっていました。これから先、日本はどうなってしまうのか?4日目になって、漸く家族と連絡が取れた時には心から「ああ、よかった!」と思いました。韓国では日本から放射能が流れてくるというので小中学校が休校になるし、メガチャーチの有名な牧師さんが、「神さまが日本に罰をお与えになったのだ」と言ったという話も聞きました。
ところで私の留学目的は、1990年頃に韓国に行った時、偶然に買ってきた『尹致昊(ユン・チホ)日記』という本にすっかり魅了されて、著者の尹致昊という人(1865~1945年:韓国で有名な親日家・政治家・教育者・キリスト教徒。韓国人として初めて日本に留学した17歳の時から78歳まで60年あまりにわたって日記を書き続けた人)についてもっと深く知りたいと思ったからです。留学期間中に学んだこと、収集した資料を元に、帰国後、『尹致昊日記』(大韓民国文教部国史編纂会刊行)全11巻の翻訳を始めました。現在、平凡社の東洋文庫から第4巻まで(5分冊)が刊行されています。今後2年ほどかけて残り7巻(10分冊)を刊行する予定です。全巻完結するまではなんとか眼と、脚と、腰を健康に保つことができるように毎日1万歩の外歩き・サイクリングを心がけています。80歳まではなんとか生きていたいと思います。私が韓国留学中における下宿生活を2011年7月に撮ったもの、もう一枚は2022年から2023年にかけて刊行された拙著の写真です。後者は、手前味噌の自己宣伝の嫌いがあり、やや気が引けるのですが、『尹致昊日記』全11巻の日本語訳は私が都立西高時代からこれまで30年以上にわたり取り組んできたもので、著者尹致昊が60年にわたって綴った韓国近代史の第一級の史料であると確信しています。