高校卒業以来、宮城県に生活し30年余り。大学時代の4年間は仙台、その後県南部の白石に6年、その後は石巻に居ります。この間幾度と地震や水害がありましたが、今回の大震災はそれをはるかに越えるものになりました。
1 自宅と職場
私の自宅は、北上川の東岸に広がる、稲井地区にあります。川岸から500m位の場所に水田を埋め立てて造成した住宅街です。職場は、石巻市渡波の海岸から200m程の場所にある石巻市立女子商業高等学校です。ここで、私は理科を教えています。(写真1.2)

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2 2011年3月11日当日
当日は、学校に勤務していました。午前中進級認定会議があり、生徒は、部活動で登校していたものを除き、自宅学
習となっていました。午後は、それらの生徒も下校した後で、単位の修得にあたり、数名の生徒を15時に保護者とともに呼び出しているところでした。

 

3 その瞬間
私は、職員室にいました。数波にわたり大きな揺れがやってきました。「テレビをつけて!」と叫んだと思います。しかし、すぐに停電。そして、そのテレビが落下。私は、隣のパソコンのディスプレイを押さえてしまい、何もできませんでした。
地震が収まり、すぐに中庭に飛び出し、校舎の被害状況を見て回りました。一部、ひび割れがみられるほか、目立った被害はなく一度職員室に戻る。教頭から「避難します。」との指示があり。自分のバッグに自分のUSBをいれ、玄関前にでる。ある教諭がカーラジオをつけ、情報を収集する。「大津波警報」、「鮎川で3mの津波」を報じていました。
泣き崩れる生徒とそれを慰める女性教員の姿が目に焼き付いています。生徒は保護者と来ていたのでその場で保護者と帰宅させ、生徒が残っていないことを確認し、とにかく、海岸から遠ざかるべく移動を開始。ひとまず渡波の鹿妻小学校へ行くものの、そこにも津波が迫っているというので、さらに山裾の神社へ。津波はぎりぎり手前で止まったものの、夜暗くなるまで神社で過ごし、水が引いたので鹿妻小学校体育館に戻り一夜を過ごしました。雪が降る大変寒い一夜でした。
夜中に3回ほどトイレ用の水をプールから汲む作業に参加したほか、遺体の搬送の依頼もされました。防寒着もなく、毛布・暖房、食料もありません。携帯電話も機能せず、外との連絡も一切できず、ラジオが唯一の情報源でした。

 

4 一夜明けて
夜明けとともに、職員は、避難所に残り運営に協力する者、帰宅を目指す者にわかれ行動を開始しました。私は、家族が心配なので(父親が要介護状態)、帰宅することにしました。水辺を避けて、山越えのルートを選び自宅のある稲井地区を目指しました。

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●写真3 JR石巻線渡波駅付近の線路(2011/3/12朝。帰宅途中に撮影)

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●写真4 2011/3/1朝。自宅前の駐車場と前の道路。水位は約70cm。

途中、流出した家屋や浸水したJRの線路を見ると被害の大きさが実感できました(写真3)。峠道は車でぎっしり。道すがら、沿岸部は通行できない状況を伝える道中となりました。
峠を越えて、稲井地区に入ると何とも平和な風景。津波到達の有無が明暗をはっきり分けたことが今回の特徴であることを感じました。
自宅の前に戻ると、道路は川のようになっていましたが(写真4)、幸い自宅の建物はあるべき場所に建っており被害もなさそう。津波の泥が庭先に少々入っただけで、玄関を開けると無事であり、2匹の猫も元気に飛びまわっていました。家族も無事。一安心。

 

5 職場は
3月14日に職場に行ってみると、一面泥の海。校舎1階部分は津波に打ち抜かれ、体育館や弓道場は破壊・流出という状況でした。(写真5.6)

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●写真5 学校正門付近。泥が10cm位堆積。駐車していた車は皆流出。なぜか私の車は正面ロータリーにありました(ここ駐めた覚えはないのですが)。

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●写真6 1階職員室もあったはずの机も流出。右端にひっくり返っているのが私の机でした。

 

以後、職員は泥と格闘の日々でした。泥の中から、必要な資料・物品や、私物などを確保。それと同時に、入学試験の合否判定と発表や新学期の準備を進めて行きました。被害のなかった2階の教室を臨時職員室として、電気も水も事務処理の機械も一切ない、事務用品も限られる状況での業務再開でした。(事務室、校長室、職員室など全て1階にあり流出。)
震災から1週間後には、携帯電話が復旧。私(当時、生徒指導部長)は制服や生徒手帳等の業者に連絡し被害状況を報告し、対応を協議。また、4月には、マスコミ報道を通じ制服の提供を卒業生に呼び掛ける等、新学期に向けて動き出すことになりました。
6 震災後の生活
ライフラインの復旧は私の自宅では、携帯電話が3月18日、電気が同20日、固定電話とインターネットが同22日、水道が4月13日に回復。ガスは震災当初からつかえました。1か月の断水期間は近くの山の沢水が大変重宝でした。(水汲みが日課でした)
自衛隊の入浴サービスや妻の実家や友人宅で洗濯をさせてもらえたのは助かりました。
通勤用の乗用車が津波で使えなくなったため、通勤は徒歩(片道約1時間)や自転車となりました。ガソリンが入手困難なため自転車は大変役に立ちました。(但し、道路にがれきが多くのこり、よくパンクしましたが。)
7 学校のその後
3月一杯かかり、生徒職員の安否確認が終わり、結果的に生徒5名が死亡、図書館職員1名が行方不明ということが判明しました。
4月21日に生徒を登校させ始業式を行なった後、曲折を経て、5月16日から市内の3つの高校の校舎を間借りし、学年ごとに分散し、授業を開始しました。
分散しているということもあり、全校行事や生徒会活動、部活動は思うに任せない状況でした。
この間、全国の高校、特に商業系の高校や女子高等から多くの義援金や支援物資、激励をいただき、大変心強くもありました。
また、2年生は一度中止した修学旅行を大阪府の全面支援のもと、行うことができました。その中で、支援いただいたお礼を兼ね、岸和田市立産業高等学校へ訪問、交流会を持つことができました。
学校は、平成24年1月に石巻市日和山にある石巻市立女子高等学校の校地内に仮設校舎が完成。全校が1つに集まり、不自由ながら平常の学校生活を取り戻しつつあります。
現在、渡波にある被災した校舎は震災がれき置き場になっています。
8 結びに
いつも「自分は被災者なのだろうか?」考えるのです。たしかに被災地には住んでいます。でも、私自身には被害はありません(車一台と若干の私物が唯一の被害)。しかし、震災を書き残すことは、被災地に生活し、震災を目撃した者の務めと思っています。
予定よりも長文になりました。私の出した1通のメールからこの場を与えていただいた武蔵高校同窓会の皆様には感謝申し上げ筆を置かせていただきます。