3C中本さんとご一緒に撮影

3C中本倶江さんの取材記事(2017年6月4日)

3C中本さんとご一緒に撮影

2017年6月4日(日)に開催された第71回総会・懇親会に、1951(昭和26)年卒業の中本倶江さん(3回生)が出席されました。懇親会の会場で、お話しを伺うことができました(写真)。

中本さんは、高校2年生になるときに、静岡県の女学校から転校してきて、武蔵高校で2年間過ごしました。当時の武蔵女学校も、レベルが高かったといいます。例えば、英語の授業は英語のみで行われていたそうです。授業に集中することで、すべての授業を理解するよう心掛けていました(物理や化学も得意でした)。
現在も健康で、良く眠り、食欲も十分にあるそうです。週に1回、書道やパソコン、公文に取り組まれています。毎年発行される同窓会誌「武蔵」は、隅から隅まですべて読んでいて、今回の総会・懇親会に参加されるきっかけとなりました。「武蔵高校で過ごせたことは、たいへん有意義で感謝している」と、当時を振り返られていました。

41回生・荒井賢一

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「日本列島を歩く」上野 啓一さん(14回・C組)

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<あらまし>
私が最初に歩き旅を始めたのが東海道であった。この時は、我家の玄関先が京都三条大橋まで本当に繋がっているのだろうかという素朴な疑問からだった。一歩外に出ると、いつも歩いている道がこの時はまったく違った景色に見えた。家の近くに鎌倉街道があり、この道を南下すれば大磯付近で東海道と交わる。ここからが本当の「東海道歩き旅」ということになる。従って、正しくは五十三次ではなく四十五次になった。この時、定年の翌年66歳であった。

歩き旅の初日は、家を出て10キロも歩かないうちにマメができてしまった。日体大の先生は「歩幅はその人の身長から100を引いた数が基準値になる」と話している。私は身長165センチなので、歩幅は65センチになる。ところがこれを忠実に守って歩いたのが良くなかった。彼等は隊列を組んで行進するのでこのような歩幅になるのだろうが、こっちはリュックを担いで歩くのだからそうはいかない。あとでわかったことだが、先を急ぐあまり身体が前のめりになり体重が爪先に掛かり過ぎたのが原因だったようだ。私の経験では、日体大理論の8~90%くらいの歩幅で歩けばマメはできないようである。

東海道を歩いた翌年、広大な北海道にチャレンジした。以下、北から順に日本列島を下りていくことにする。


1)北海道を歩く

出発地点は日本最北端の地、宗谷岬。北海道で一番神経を遣ったのが、やはりヒグマの存在であった。誰もいない山道を一人で歩いていると恐怖感すら覚える。辺りの物音、風で揺れるクマザサの動きなど、全てヒグマが近づいているのではないかと錯覚する。

ちなみに北海道での死者数は、年間でスズメバチ5~7人、自動車事故210人に対し、ヒグマは6年に1人とかなり少ない。しかし、報道では大きく扱われる。
私は道中、ヒグマ、スズメバチ、クルマを三大天敵とみなし、常に注意を払って歩いた。ヒグマとスズメバチには共通点がある。彼らはポカリスエットなど甘い匂いのするスポーツ飲料にかなり敏感だ。特に女性の場合、化粧や香水は絶対禁物。スズメバチなど、たちまち寄ってくる。もっとも山の中で化粧をする人もいないだろう。小池都知事だったらどうするのだろう。

「クマに遭ったら死んだふりをした方がいい」と昔から言われているがとんでもない。これは最も危険な行為だ。第一、そんな度胸を持った人間がこの世の中に何人いるだろうか。後藤又兵衛くらいだろう。言われた通りにやって生還した人の手記を私は今まで見たことがない。
また、クルマはトンネルの中では猛獣に変身する。逃げ場がないことと、自動車が通った時の風圧が予想以上に凄まじいからだ。雨ガッパを着ている時など、内壁にへばりついていないと身体ごと持っていかれる。このようにクルマは、特にトンネルの中でキバをむき出してくる。

留萌から内陸部に入り、岩見沢を通り、苫小牧に抜け、噴火湾沿いに歩き、上磯に着いた。この後、函館には行かず松前をゴール地点とした。北海道に一つしかない街道(=松前街道)を歩いてみたかったからである。北海道最南端の白神岬に立つと、龍飛崎が遠くに浮かんで見えた。

宗谷岬から松前まで、769キロ、121万1千歩だった。28日を要した。


2)奥州路を歩く

本州最初の地は龍飛崎。この真下を昨年3月26日に開通した北海道新幹線が走っている。白神岬から19.2キロの地点。ここ龍飛崎には「津軽海峡冬景色歌謡碑」がある。正面の赤い釦を押すと、石川さゆりの曲が流れてくる。また、日本でただ一つ、階段国道がある。国道ではあるが自動車は通行できない。段数362段、標高差70メートルある。

陸奥湾を左手に見ながら松前街道を南下すると、やがて青森市に入る。ここからいよいよ内陸部に入り八甲田山に向かって山道を歩く。しばらく行くと「歩兵第五連隊第二大隊遭難記念碑」がある。ここは陸軍の雪中行軍で、200人もの死者を出す大惨事が起きた場所だ。近くに土産物屋があるが、100年以上経った今でも亡霊が出て、時々、戸をトントンと叩くそうだ。

この後、奥入瀬沿いに南下し、十和田湖に向かう。さらに進むと、迷ケ平(まよがたい)という自然休養林がある。この辺り、迷いやすいのでこの地名が付けられたのかもしれない。昨年6月、山菜取りに行った人がツキノワグマに襲われ死亡した現場はここから近い。ヒグマに比べやや小型ではあるが、獰猛であることに変わりはない。雨の降る中、周囲に注意を払いがら県道21号線を歩く。周りに民家などまったくない。やっとのことで、田子(たっこ)の町に辿り着いた。着いた途端、張りつめていた緊張がどっと抜けてしまった。

ここ田子はニンニクの産地で有名である。キムチだけでなく、あらゆる食べ物に入っており、子供のおやつにまで入っているとは知らなかった。
この辺りを過ぎると、やっと国道らしき道を歩けるようになった。宿の手配はどうやっているのかとよく聞かれる。青森、盛岡、仙台などの地方都市には「東横イン」等、ビジネスホテルが必ずある。これらのデータをケータイに入れておき予約をする。そうでない所では予め町役場、村役場に電話で2、3軒の宿を教えてもらっておく。近づいたら、直接宿に電話をし予約をする。

奥州路は900キロ以上あるため、福島で一旦切り上げ、春と秋2回に分けた。二本松では昔から有名な菊人形展を見に行った。残念ながら、ここには外国人観光客は一人もいなかった。菊は日本を象徴する花でもあり、海外の人にもっと見て欲しかった。4号線をひたすら南下し日光今市で杉並木街道を歩き、宇都宮、草加を通り、文化の日、日本橋に到着し、翌日自宅に着いた。

龍飛崎から自宅(入間)まで、941キロ、157万9千歩だった。都合35日を要した。


3)東海道を歩く

最初に歩いた東海道はやはり一番印象に残っている。色々ハプニングもあった。名古屋に泊まった宿で、ズボンのポケットにサイフを入れたまま洗濯してしまったのだ。脱水が終わり、乾燥機に入れる時に、はじめて気が付いた。<しまった!>と思ったが、あとの祭り。早速、フロントで古新聞をもらい床に敷き紙幣を並べて乾かした。こんなこと、名古屋に来てまでやらなくても高尾山薬王院銭洗い弁天でやっておけば良かった。福澤諭吉、野口英世、両先生が泣いていた。

また、恐ろしいこともあった。この日は朝から雨で、低気圧も近づいていた。歩くのを中止にしようとも思ったが、宿でゴロゴロしていても、もったいない。雨の中、思い切って外に飛び出した。1キロも行かないうちに風雨がひどくなり、スニーカーの中がグショグショになってきた。傘を差してはいるがまったく役に立たない。横風もさることながら、トラックが容赦なく泥水をはね飛ばしていくからだ。傘も、ビニールと骨がバラバラになってしまった。そのうち、ヴォーンという不気味な音が聞こえてきた。風が高圧線を叩きつけ、振動している音だ。本当に気味が悪い。そして旧東海道鈴鹿峠に差し掛かった。頭上には鬱蒼とした木々が覆いかぶさり、折からの風でギーギーと音をたてている。高圧線の音と混じりあい、辺りも暗く、山賊が出てもおかしくない状況になってきた。そう思い込むと急に恐ろしくなり、200メートルも行かないうちに、前に進めなくなった。何と恐ろしい峠なのだろう。今は、山賊など出るわけがないのだが、木々が大きく揺れ動くと、本当に山賊が襲ってくるのではないかと錯覚する。まったく生きた心地がしなかった。2010年5月23日という日は、一生、忘れられない日になった。

そして三条大橋の擬宝珠が見えた時は、我が家の玄関先は、間違いなく三条大橋まで繋がっていたことをこの目と足とで確認できた瞬間であった。

自宅から京都まで、562キロ、107万2千歩だった。25日を要した。


 4)山陽道を歩く

道中の無事を祈り、西宮神社で参拝をする。この辺り、灘五郷で有名だ。しかし、平成7年に起こった阪神・淡路大震災の影響で廃業に追い込まれた酒造メーカーも何軒かあったそうだ。
東海道には家康を中心とした城が多かったが、この山陽道には様々な武将の城が多く、それだけ乱世の時代だったのかもしれない。特に中国大返しは、その代表的な事件ではないかと思う。

下関に入る前、面白いことがあった。小野田を出て長府に向かって歩いている時だった。一台のパトカーが脇を通り過ぎ、前方で停まり2人の警察官が降りてきた。私はてっきり後ろの方で事故があったのだと思い「ご苦労さんでーす」と挨拶をした。ところがその警察官は「ちょっとお伺いしたいことがあるのですが…」と、こっちに向かってきた。まったくの不意打ちだ。一瞬、<あれ?オレ今日、何か悪いことをしたかナー>と思ったくらいだった。聞くと、私を家出の疑いで調べたいとのことだった。

「リュック担いでスニーカーを履いた人間が、家出なんかしないでしょう」と言うと、「いえ違うんです。最近は身なりの良い人でも家出をするケースが増えているのです」ということで、こっちは身なりは特に良くなかったが、職務質問を受けることになった。後部座席に座らされ、一時的だったにしろ、身柄を拘束された。私の運転免許証を見ながら通信センターと交信しだした。幸い(当たり前だが)家から捜索願は出されていないとのことで、無罪放免になった。もし出ていたら、帰って女房を取っちめてやろうと思っていた。そんなこんなで、無事(?)下関に着いた。

京都から下関まで、652キロ、113万8千歩だった。26日を要した。


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5)九州を歩く
下関を出発し、関門海底トンネルをくぐり、九州に入った。人道は幅4メートルしかないが、れっきとした国道2号線である。目の前に聳え立つ関門橋は自動車専用道路のため、歩行者は通行できない。大分県に寄り、初代城主黒田官兵衛孝高の中津城を見学した。
雨の耶馬渓を歩き、阿蘇山に向かう。大観峰では天気も良く、360度、素晴らしい眺めだった。この後、「阿蘇大橋」を渡るのだが、よもや熊本地震で崩落するとは思わなかった。

球磨焼酎で有名な球磨川沿いに歩く。球泉洞の中に入ると、棚があり焼酎のボトルキープができる。値段は、四合ビンで5年もの1万2千円だった。
大野渓谷のブッシュをかき分け、新燃岳を横に見ながら霧島温泉に向った。この宿では朝から焼酎の試飲をしている泊まり客が何人かいる。
木造としては九州で一番古い嘉例川駅に行く。鹿児島空港から近いため、タクシーが入れ替わり立ち替り来て、運転手自ら駅の説明をしていた。

そして錦江湾に浮かぶ桜島が見えてきた。島が噴火して楽しんでいるのは、私と同じようなよそ者だけらしい。鹿児島では、雨の予報よりも、風向きの予報の方が重要とのことだった。鹿児島に住んでいる人は、しかし、長い間、桜島と共存しているのである。
下関から鹿児島まで、450キロ、74万9千歩だった。16日を要した。

長い長い旅もついに終わった。日本列島を北から南に歩いてきたが、数字では次のようになった。

距離3374キロ、歩数574万歩、130日を要した。延べ6年かかった。


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※詳しくは、本を出版しましたので、是非ご覧になって下さい。

題 名:「列島縦断574万歩」・・・パソコンで検索可能、もしくは書店で取り寄せ
著 者:上野 啓一
発行所:講談社エディトリアル
定 価:本体1,700円+税 (2016年8月25日発行)
ISBN:978-4-907514-58-7

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小田部羊一さん(7回生)「文化庁メディア芸術祭功労賞受賞」おめでとうございます。

文化庁メディア芸術祭功労賞受賞、小田部羊一さん(7回生)おめでとうございます。

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会報51号の同窓会創立70周年特別企画でもご紹介した小田部さん は、芸大卒業後から今日まで、アニメーターとして「アルプスの少女ハイジ」や「母をたずねて三千里」のキャラクターデザイン・作画監督、「スーパーマリオブラザーズ」のゲーム制作に参加、「ポケットモンスター」シリーズ(長編映画)の監修など多くのアニメ作品を作り出してこられています。

その長年の活躍に対し、2015年度受賞されました。

7月には、丸善書店ギャラリーでハイジの原画展が開催されましたが、2016年12月2日(金)から22日(木)まで、イタリア文化会館主催で、同館エキジビションホールにおいて、マルコの世界 小田部羊一と「母をたずねて三千里」展が開催されています。

期間中無休 11:00~18:00  入場無料  イタリア文化会館 http://www.iictokyo.esteri.it

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高橋 誠(19期生・E組)さんの「秋の作品展」(2016.10/01~10/07迄)

高橋 誠(19期生・E組)さんの「秋の作品展」

小田原に今春オープンしました「高橋誠記念館」(開館:期間限定)にて、【10/1(土)~10/7(金)】に「秋の作品展」を実施いたします。
なお【10/1(土)】は、コンサートも開催されます。詳細は、下記PDFおよびURLの通りです。


■翠・高橋誠記念館・ホームページ http://www.sui.gallery/
■以前のお知らせ http://musashi-dosokai.com/?p=3039

■秋の作品展(*PDFが開きます)
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秋のひととき、海の風と山の香が交錯する地で、高橋誠氏の世界観をぜひお楽しみください。

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高橋 誠(19期生・E組)さんの「翠・高橋誠記念館」オープン

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陶芸家であった 高橋 誠(19期生・E組) が亡くなって3年になります。

このたび自宅と工房がありました小田原市根府川に「翠・高橋誠記念館」がオープンいたしますのでご案内申し上げます。

みかん畑に囲まれた記念館からは相模湾が見えます。天気がよいと海の向こうに大島や房総半島を眺めることができます。

新緑の五月、誠の作品を片浦(小田原市西部の海に沿った地域を片浦と呼びます)の美しい風景とともにお楽しみいただければ幸いです。詳しくはホームページをご覧ください。

高橋 明子 《奥様よりお便りを頂きました》

【翠・高橋誠記念館・ホームページ】 http://www.sui.gallery/

■ごあいさつ(PDF) ■パンフレットおもて(PDF) ■うら(PDF)

画家:岡勇氏作品

画家「岡 勇(美術科・教師)」

画家:岡勇氏作品

恩師である画家「岡 勇」さんの作品です。

「正統的で抑制の利いた古典技法を縦横に駆使し、モダンで温容な画風で一時代を築いた作家」(フランス芸術協会選考委員長:クリスティーヌ・モノー)と評価される岡先生は、2013年には、かのルーブル美術館から「フランス芸術最高勲章」を受章されています。
(ご家族よりお便りをいただきました。誠にありがとうございます)

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石澤先生訪問記(今泉 郁夫)

石澤先生訪問記

●山が結ぶ縁

去年の年末のことでした。田無のサルビア歯科に通う道すがら、偶然見覚えのある女性に出会ったのです。ほぼ二十数年ぶりの出会いでしたが、お互いびっくりして立ち止まり、簡単なあいさつを交わしました。彼女はボランティア日本語教師として市庁舎で講座終了後、同僚達と帰る途中だったようで、あまり長い間話しているとお連れに迷惑なので、すぐ別れたのです。その彼女というのは、高島俊恵氏で、武蔵高校時代の同僚の英語教師で、山岳部の行事で白根三山等の合宿に同行をお願いした人なのです。今は結婚されて吉本姓になっています。実は、サルビア歯科の医師の一人である野口いづみ氏も武蔵山岳部1967年卒で日本山岳会の理事でもあり、山の著作も、テレビ出演などもしています。野口医師の治療が終わった後、吉本さんの住所など聞いておくべきだと後悔したのですが、「やまね会」の名簿があることを思い出し、調べてみました。そこで、年賀状をしたためました。その賀状の返事に、熱海の施設にいる石澤先生を訪問しよう、という提案があり、喜んでご一緒することにしました。

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●日本語教師として

東京駅から新幹線「こだま」で熱海までは、長いようで短い時間でした。話題の中心は、武蔵高校時代のことや日本語教師についてのことでした。その時代、一緒に山岳部顧問をしていただいた大角悦子氏が亡くなられたことも聞きました。
当日は晴天ではなかったので、富士山は麓の残雪のみ見えていました。車窓を流れゆく景色を見つつ、今の仕事などについて語り合いました。彼女は数か所でボランティア日本語教師をしています。私も中国で十数年日本語教師をしていましたので、話がそこに向かうのは当然かもしれません。今、吉村氏が悩んでいるのが、中国残留孤児二世と、東南アジア出身で日本人妻として日本で暮らしている人の日本語指導です。二人の学習者に共通しているのが、母国での初等教育がきちんと行われていないので、勉強の仕方が分からないことのようです。母国語による表現も未熟で、また、40歳以上ということもあり、記憶力が落ちていることだそうです。吉本氏は昔は英語に燃えていたが、今一番好きなのは日本語だそうです。

●ゆとりあの郷

やがて列車は熱海駅に到着。駅から目的地の「ゆとりあの郷」までタクシーで15分もかかりません。丘のピーク近くに建てられた、武蔵高校ほどのビルで、熱海市街と、海と、初島、そして遠くには大島、そして房総半島あたりが一望のもとに望まれます。受付に来意を告げると、すぐに石澤先生が来て下さり、先生のお住まいの部屋に案内されました、部屋は65㎡ほどで、十分な広さです。調理もする気なら設備はあるが、90歳の石澤先生は基本的には食堂で済まされます。石澤先生は70歳になられた時に、財産を整理し、この「ゆとりあの郷」に移られました。当時、そして今でも、熱海にこの施設に勝るものは建てられていない、とのことです。昼時になっていたので、我々もその食堂で昼餉を共にしました。先生の部屋から食堂まで100mほどの廊下を通り、エレベーターに乗りますが、先生は廊下の手すりには敢えてつかまらず、ご自分で歩かれました。吉本さんの話では、2年ほど前に訪問した時より、少し弱ったところもあるが、矍鑠たるものだ、とのことでした。

●戦争の影

昼食後は、再度先生の部屋に戻り、おしゃべりに花を咲かせました。先生が奈良高女を卒業したのは9月で、それも戦争のためだったとのことです。卒業後すぐ赴任されたのが武蔵13高女だったそうです。それから、武蔵時代のさまざまな先生の話となりました。生物の関塚先生は特攻隊員で朝鮮におられたそうですし、数学の田原先生は中国大陸を転戦なさり、生物の山梨先生は南方で爆薬が仕掛てある機密書類を持ち歩き、音楽の今井先生はピストルと鶏卵を交換されたそうです。それ以外の先生、そして生徒たちも第二次世界大戦の影響は色濃く残されています。あの戦争がなければ、武蔵高校の先生になられなかった先生も多かったのではないかと思われます。

●学校紛争

武蔵高校にも、いわゆる紛争がありました。当時、石澤先生は改革委員の一人として活躍されました。「真の教育とは何か」ということが問われ、真の教育を目指す運動が展開されました。私も、生徒から、「あなたは何で教師になったのですか」と問い詰められ、「暇があって、山に登れると思ったから」などと返事して顰蹙を買いました。一時は殆どの先生がゼミ形式の授業等をしました。連日の職員会議で、時には23時頃まで会議が続きました。「武蔵の自由」などというのもこういう経過を経て作られていったのではないでしょうか。
自由と同時に、個性的な授業も要求されました。個性的な先生も多かったと思います。化学の杉本先生、数学の三神先生、物理の前畑先生、家庭科の志津先生、体育の高橋先生……枚挙にいとまがありません。石澤先生はいかにも懐かしそうにそれら先生方との交流を回想されていました。そうそう、大菩薩ヒュッテの建設も石澤先生は校長先生をはじめとする方々と尽力されました。

●再見! 石澤先生

あまり長居をしてはお身体に障るだろうと思い、午後4時前に辞去しました。石澤先生は門まで我々を見送って下さり、ちょっとお淋しそうでした。考えてみたら、私が国語の教師になったのも先生の薫陶のお蔭かと思います。武蔵の1年に入った時の国語の担当は石澤先生でした。それまで、武蔵の才媛ばかり相手に授業をされていた先生には、大変なお荷物であったと考えます。石澤先生、本当にありがとうございました。いつまでもご健勝でいらっしゃいますよう。
海岸にバスが差しかかる頃、熱海桜が満開なのが暮色に映えていました。

(文章:今泉 郁夫)

高橋 誠さん(18回生E組)

磁器作家「故 高橋 誠 さん(19回生E組)」の奥様、高橋明子 様よりお便りを頂戴しました。

高橋 誠さん(18回生E組) 同窓会の皆様、生前は陶芸家 髙橋 誠の制作活動を応援してくださいましてありがとうございました。心よりお礼申し上げます。誠のことを少し紹介させていただきます。

誠は1948年大宮に生まれ、武蔵高校ではバレーボール部に所属、自由な校風の中青春を謳歌しました。3年の浪人生活を経て東京芸術大学に入学、大学及び大学院で色絵磁器の人間国宝の藤本能道に師事、卒業後も10年間同師の元で弟子として修業しました。1984年に日本工芸会正会員となり、1986年神奈川県小田原市に築窯、独立、日本中で個展を開催、時には海外の展覧会にも出品し、2013年5月に東京で事故により急死する前日まで制作活動に打ち込みました。

「色絵磁器」の作品を数多く制作、白い磁器にマンガンの黒い線で「骨描き」をし、透明感のある色彩の重なりで鳥や植物をいきいきと描きました。また吾須と呼ばれる絵の具を使用して藍の濃淡で絵付けする染付の作品も多く制作しました。仕事が好き、お酒が好き、人が好き、故郷となった小田原市根府川をこよなく愛し、どこでも多くの友人に恵まれました。応援してくださいました皆様には大変感謝しております。

誠が大好きだった根府川にある自宅をただ今改装中、2016年春には誠の作品を展示するギャラリーをオープン予定です。その時にはご案内申し上げますので相模湾を望み、ミカン畑の広がる美しい根府川にぜひ誠の作品に会いにお越しくださいませ。

 会報誌31号の表紙も飾って下さった磁器作家「故 高橋 誠 さん(19回生E組)」の奥様、高橋明子 様よりお便りを頂戴致しました。誠にありがとうございました。

 表紙にもありました写真は、高橋 誠 さんの作品「色絵烏瓜に山雀面取壷」です。

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「地域女性史の編さん活動に関わって」 木下 伸子(13回生G組)

昨2013年9月、私もメンバーの1人になっている西東京市女性史研究会(通称西女研-さいじょけん)で西東京市の女性の聞き書き集・年表「女の絆と底力」を出版した。2012年12月には西女研の前身である西東京市の女性史を編さんする会で「いのちと知恵をつなぎ暮らしから社会を変えた女たち」を刊行しており、今回はその第2弾である。編さんする会は12人のメンバーだったが、今回西女研はメンバー5人でまとめ上げた。

01otayori_kinoshita 地域女性史とは、学校で習う歴史や自治体史などに取り上げられることは殆どない、それぞれの地域で、日々の暮らしの中で様々な問題や課題を解決しながら生きてきた女性の人生にスポットを当て、彼女たちがまちの歴史に深くかかわってきたことの記録である。聞き書きという形で纏められることが少なくない。

「ここで、ずっと農業をされていて、観光農園にまでされた、その間いろんなことがあったと思うのですが、是非、お話をうかがわせてください」たとえば、農家の娘に生まれ80年余り、今も農業をしている女性には、こんな風にお願いをするところから、聞き書きを始める。
「なーんも人に話すような大したことしてきたわけじゃないんだよ」私も子どものころに聞いた覚えがある多摩言葉で控えめに語り始めるが、「戦争前は、家業の農業を手伝いながら養蚕もしていた。日照り続きで雨乞いをした。戦争中はB29の空爆に逃げ惑い幼い弟妹を連れて疎開をした。終戦後、農地改革があったので、分家してもらって結婚、農業を続け、やがて、自ら他県の果樹農園を見に行って、夫と一緒に観光果樹農園にした。農協の役員をしたり、70歳過ぎて、ヘルパーの資格をとり、ボランテイアもした」など彼女の悲喜こもごもの人生の殆どが語られる。この地域の農業の歴史でもある。

 

01otayori_kinoshita2 他に家業を切り盛りした商家の主婦、町会議員、共同保育所作り、高校増設運動、反核・平和運動、福祉や消費者問題、環境問題・ゴミ減量などに取り組んだ人、教師や保母さん、女性社員が何千人といる中で定年まで勤めた同期3人のうちの1人など、話を聞いた人は30人以上、それぞれの話を、時系列に整理したり、特にその人らしいこと、地域の歴史として興味深いことなどを、できるだけ話者(話し手)の話し言葉のまま記述するのが聞き書きである。他のメンバーと一緒に議論して推敲を重ね、あいまいなところや聴きたりないことがあると、またご本人に聞きに行くということを繰り返し、今まで知らなかった人と信頼関係ができ親しくなっていく過程を経て、最終的にはご本人の了解を得て、出版原稿となる。

どの話者も共通して語るのは太平洋戦争中の体験である。この地域には中島飛行機関係の軍需工場が多数あったとのことで空襲もひどかったようで、印象に残っている。

私は小学校入学の年から、平成の大合併で田無市と合併して西東京市になった旧保谷市に住んでいる。畑だらけの農村だったところに移住してきて、親たちが様々な活動をして、まちを変貌させてきたのを見てきたが、自分自身は武蔵卒業後定年まで、市外に勤めていたので、今回話を聞いた女性たちのような活動はしてこなかった。この編さん活動に関わって改めて、住んでいる地域の歴史を見つめ直すことになった。

最初の出版は市との協働事業で、助成金が得られたが、今回は全くの自費出版、1200円で有償頒布することになった。趣旨を理解してくれる人にカンパをお願いしたりもしたが、武蔵の先輩をはじめ、多くの友人・知人に協力してもらった。出来上がった本を読んでもらったが、一様に、西東京のことだが、どこの地域にも、女性にも、共通することが沢山あり、興味深かったという感想がもらえ嬉しかった。

これからもゆるゆると活動していくつもりだ。

「還暦同窓会に参加して」 渡辺 寛

還暦同窓会は帝国ホテルでやろうよ!ということで衆議一決、帝国ホテル所属の渡辺寛が幹事団の一人となり場所・時間を設定しました。

団塊の世代として小学校から50人10クラスを中学・高校とわたり続け、ワタナベもどさくさにまぎれて帝国ホテルにもぐり込めたわけです。以来30有余年、内外のVIPをもてなすホテルとして(最近は麻生首相が夜な夜な通われている会員制バー「ゴールデンライオン」があります)接客業の醍醐味を楽しんできたのです。

寄る年波か名前が出てこない、お互い様と自ら○○デス、旧姓は○○デスとのお披露目で始まりました。想いは文化祭の終った夜祭フォークダンス、あと3人目であの憧れのマドンナと手に手をとって…今はその手もコラーゲン配合クリームにお世話にならざるを得ない現実があったのです。

この年代になると欲も食の世界に限定されるようで、村上料理長の味を引き継ぐホテルのフレンチを大いに堪能しました。
‘60年代青春華やかなりし頃、ラジオ東京バックインミュージック、なっちゃん・チャコちゃんのトークを聞きつつ受験勉強、葉書投票の名前を読んでもらうことを生きがいに高校時代を過ごしました。当時のミュージックがもてはやされるこのごろ、我ら還暦世代にはNHKラジオ深夜便という強い味方があり、私、渡辺個人としては、昨年からキャスターに仲間入りした柴田由紀子アナを応援しています。

今後は8020(80歳自己歯20本)を目標に、ジョギングでいい汗かいて、美味しいビールを飲むのを楽しんで、次回のクラス会に元気な顔を見せたいと思います。

代表幹事 渡辺 寛