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「大菩薩ヒュッテ 新設水道完成!≪武蔵上水≫と命名」 卯之原 文康(山岳部OB会会長代行)

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2007年の夏、勝縁荘から借りていた水道が渇水のため使えず、利用者にこ不便をおかけしたことがありました。既存の水道は老朽化が激しく、たびたび破損 水漏れを起こしていたので、山岳部OB会で、この際もっと水量を確保できる自前の水道を作ろうという話が持ち上がりました。

早速、翌年から山岳部OB会総会とヒュッテ管理委員会それぞれで、山岳部OB諸氏、学校、PTA、同窓会の承認をいただき、並行して近隣山小屋の了解を取り付け、関係各官庁との事前協議、取水口・水路の候補地調査、水路設計など、2009年の新水路敷設工事に向けて準備を進めていきました。

取水口選定にあたっては、四季折々の沢筋の水量を調べ、渇水期でも水量が確保できること、水圧による自然放流なので導水を容易にするため、ヒュッテよりも標高が50m以上高いことなどに重点を置き、最終的には勝縁荘の前を流れる姫ノ湯沢の源頭付近で標高差100m上部の国立公園内に取水口を決めました。12月に山梨県峡東林務環境事務所による取水口の確認、水路敷測量に立会い、申請のための事前準備をすべて終えました。

 

03dosokai_unohara 2009年2月に提出した申請書が3月に認可さね、4月からは水路の整備のため、倒木の排除、下草刈りを行い、5月30日、初狩から荷揚げした300kgの資材を勝縁荘前に着荷。一巻の重量40kg、全長90m、口径25mmの塩ビ水道二層管七巻をいったん平らに延ばし、予定水路に沿って引っ張り上げたり、ダム状にした取水口にフィルター付き取水管を設置したり、登山道を跨ぐ所に水道管を通した鉄管を埋めたりと、総勢11名のOBが汗まみれになつて工事にあたりました。

その日の夕方、試験開通させた水道管から水が勢いよく出た時には、皆で美味しい沢水を飲みながら完成を喜びあいました。その時、誰からともなく「水道の名前は武蔵と学校の北を流れる玉川上水にちなんで<武蔵上水>にしようと命名されました。さらに、9月に補助水道管と中間枡を設置して、渇水対策と不純物除去対策を補強しました。これで、ようやく全てのインフラを自前で持つことができ、利用者の皆さまに自信を持って快適な宿を提供できるようになったと思います。

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「お鷹の道散策~11回生ミニ同期会~」 北川 洋(11回生C組)

昭和34年3月卒業の11回生は一年おきに同期会を開いていますが、そのほかにも年に数回、有志が声を掛け合ってミニ同期会を開いています。

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最近では、都立薬用植物園で「青いケシ」を鑑賞したり、埼玉県立航空記念公園での桜の花見などを行い、毎回10数人が参加しています。2013年4月には、国分寺から「ハケのお鷹の道」に行ってきました。

国分寺駅南口からしばらく歩くとお鷹の道に入ります。ここは住宅の裏手を流れる水路に沿った散歩道で、自転車も通らずのんびりと歩くことができ、真姿の池や国分寺崖線下の湧水群では、清らかな水の流れに心も洗われ、武蔵国分寺跡では参加者一同ボーっとはるか昔に思いをはせていました。

国分寺駅に戻った後は遅い昼食も兼ねてカラオケ店にもぐりこみ、歌いたい人は思い切り熱唱し、話したい人はおしゃべりに興じるなど、それぞれにたっぷりと楽しんでいたようです。

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「今年も皆さんお元気でした」 野口 敦子(昭和23年併設中学・3年東組)(2009年03月12日開催)

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高女で入学し、高校へとそのまま進み、半世紀を遙かに過ぎた今、出席者は少なくなりましたが集まりは続いています。

2009年3月12日、新宿のレストランで、昼食会を、出席者12名、健康で集えることに感謝し。欠席された方々にも今後の友情の輪が拡がる事を願っています。

来年は62年目のクラス会。元気で再開出来ることを心待ちしています。

「還暦同窓会に参加して」 渡辺 寛

還暦同窓会は帝国ホテルでやろうよ!ということで衆議一決、帝国ホテル所属の渡辺寛が幹事団の一人となり場所・時間を設定しました。

団塊の世代として小学校から50人10クラスを中学・高校とわたり続け、ワタナベもどさくさにまぎれて帝国ホテルにもぐり込めたわけです。以来30有余年、内外のVIPをもてなすホテルとして(最近は麻生首相が夜な夜な通われている会員制バー「ゴールデンライオン」があります)接客業の醍醐味を楽しんできたのです。

寄る年波か名前が出てこない、お互い様と自ら○○デス、旧姓は○○デスとのお披露目で始まりました。想いは文化祭の終った夜祭フォークダンス、あと3人目であの憧れのマドンナと手に手をとって…今はその手もコラーゲン配合クリームにお世話にならざるを得ない現実があったのです。

この年代になると欲も食の世界に限定されるようで、村上料理長の味を引き継ぐホテルのフレンチを大いに堪能しました。
‘60年代青春華やかなりし頃、ラジオ東京バックインミュージック、なっちゃん・チャコちゃんのトークを聞きつつ受験勉強、葉書投票の名前を読んでもらうことを生きがいに高校時代を過ごしました。当時のミュージックがもてはやされるこのごろ、我ら還暦世代にはNHKラジオ深夜便という強い味方があり、私、渡辺個人としては、昨年からキャスターに仲間入りした柴田由紀子アナを応援しています。

今後は8020(80歳自己歯20本)を目標に、ジョギングでいい汗かいて、美味しいビールを飲むのを楽しんで、次回のクラス会に元気な顔を見せたいと思います。

代表幹事 渡辺 寛

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「石澤慶子先生の米寿を祝う会」 菊池 暘子(7回生B組クラス会)(2012年10月8日開催)

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私たちが昭和30年に武蔵を卒業して57年になります。

このたび、担任であった石澤先生が、めでたく米寿を迎えられたことを祝し、秋晴れの荻窪でお祝いのクラス会を開きました。

先生は足を傷めておられたにもかかわらず、遠方からお出かけくださって、かつての生徒たちと懐かしい思い出話に花を咲かせました。

恩師がご健在であればこそ、クラス会も長く続いてきたことを実感しています。

 

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「東日本大震災の被災地にて」藤岡 卓(32回生G組)

高校卒業以来、宮城県に生活し30年余り。大学時代の4年間は仙台、その後県南部の白石に6年、その後は石巻に居ります。この間幾度と地震や水害がありましたが、今回の大震災はそれをはるかに越えるものになりました。
1 自宅と職場
私の自宅は、北上川の東岸に広がる、稲井地区にあります。川岸から500m位の場所に水田を埋め立てて造成した住宅街です。職場は、石巻市渡波の海岸から200m程の場所にある石巻市立女子商業高等学校です。ここで、私は理科を教えています。(写真1.2)

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2 2011年3月11日当日
当日は、学校に勤務していました。午前中進級認定会議があり、生徒は、部活動で登校していたものを除き、自宅学
習となっていました。午後は、それらの生徒も下校した後で、単位の修得にあたり、数名の生徒を15時に保護者とともに呼び出しているところでした。

 

3 その瞬間
私は、職員室にいました。数波にわたり大きな揺れがやってきました。「テレビをつけて!」と叫んだと思います。しかし、すぐに停電。そして、そのテレビが落下。私は、隣のパソコンのディスプレイを押さえてしまい、何もできませんでした。
地震が収まり、すぐに中庭に飛び出し、校舎の被害状況を見て回りました。一部、ひび割れがみられるほか、目立った被害はなく一度職員室に戻る。教頭から「避難します。」との指示があり。自分のバッグに自分のUSBをいれ、玄関前にでる。ある教諭がカーラジオをつけ、情報を収集する。「大津波警報」、「鮎川で3mの津波」を報じていました。
泣き崩れる生徒とそれを慰める女性教員の姿が目に焼き付いています。生徒は保護者と来ていたのでその場で保護者と帰宅させ、生徒が残っていないことを確認し、とにかく、海岸から遠ざかるべく移動を開始。ひとまず渡波の鹿妻小学校へ行くものの、そこにも津波が迫っているというので、さらに山裾の神社へ。津波はぎりぎり手前で止まったものの、夜暗くなるまで神社で過ごし、水が引いたので鹿妻小学校体育館に戻り一夜を過ごしました。雪が降る大変寒い一夜でした。
夜中に3回ほどトイレ用の水をプールから汲む作業に参加したほか、遺体の搬送の依頼もされました。防寒着もなく、毛布・暖房、食料もありません。携帯電話も機能せず、外との連絡も一切できず、ラジオが唯一の情報源でした。

 

4 一夜明けて
夜明けとともに、職員は、避難所に残り運営に協力する者、帰宅を目指す者にわかれ行動を開始しました。私は、家族が心配なので(父親が要介護状態)、帰宅することにしました。水辺を避けて、山越えのルートを選び自宅のある稲井地区を目指しました。

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●写真3 JR石巻線渡波駅付近の線路(2011/3/12朝。帰宅途中に撮影)

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●写真4 2011/3/1朝。自宅前の駐車場と前の道路。水位は約70cm。

途中、流出した家屋や浸水したJRの線路を見ると被害の大きさが実感できました(写真3)。峠道は車でぎっしり。道すがら、沿岸部は通行できない状況を伝える道中となりました。
峠を越えて、稲井地区に入ると何とも平和な風景。津波到達の有無が明暗をはっきり分けたことが今回の特徴であることを感じました。
自宅の前に戻ると、道路は川のようになっていましたが(写真4)、幸い自宅の建物はあるべき場所に建っており被害もなさそう。津波の泥が庭先に少々入っただけで、玄関を開けると無事であり、2匹の猫も元気に飛びまわっていました。家族も無事。一安心。

 

5 職場は
3月14日に職場に行ってみると、一面泥の海。校舎1階部分は津波に打ち抜かれ、体育館や弓道場は破壊・流出という状況でした。(写真5.6)

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●写真5 学校正門付近。泥が10cm位堆積。駐車していた車は皆流出。なぜか私の車は正面ロータリーにありました(ここ駐めた覚えはないのですが)。

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●写真6 1階職員室もあったはずの机も流出。右端にひっくり返っているのが私の机でした。

 

以後、職員は泥と格闘の日々でした。泥の中から、必要な資料・物品や、私物などを確保。それと同時に、入学試験の合否判定と発表や新学期の準備を進めて行きました。被害のなかった2階の教室を臨時職員室として、電気も水も事務処理の機械も一切ない、事務用品も限られる状況での業務再開でした。(事務室、校長室、職員室など全て1階にあり流出。)
震災から1週間後には、携帯電話が復旧。私(当時、生徒指導部長)は制服や生徒手帳等の業者に連絡し被害状況を報告し、対応を協議。また、4月には、マスコミ報道を通じ制服の提供を卒業生に呼び掛ける等、新学期に向けて動き出すことになりました。
6 震災後の生活
ライフラインの復旧は私の自宅では、携帯電話が3月18日、電気が同20日、固定電話とインターネットが同22日、水道が4月13日に回復。ガスは震災当初からつかえました。1か月の断水期間は近くの山の沢水が大変重宝でした。(水汲みが日課でした)
自衛隊の入浴サービスや妻の実家や友人宅で洗濯をさせてもらえたのは助かりました。
通勤用の乗用車が津波で使えなくなったため、通勤は徒歩(片道約1時間)や自転車となりました。ガソリンが入手困難なため自転車は大変役に立ちました。(但し、道路にがれきが多くのこり、よくパンクしましたが。)
7 学校のその後
3月一杯かかり、生徒職員の安否確認が終わり、結果的に生徒5名が死亡、図書館職員1名が行方不明ということが判明しました。
4月21日に生徒を登校させ始業式を行なった後、曲折を経て、5月16日から市内の3つの高校の校舎を間借りし、学年ごとに分散し、授業を開始しました。
分散しているということもあり、全校行事や生徒会活動、部活動は思うに任せない状況でした。
この間、全国の高校、特に商業系の高校や女子高等から多くの義援金や支援物資、激励をいただき、大変心強くもありました。
また、2年生は一度中止した修学旅行を大阪府の全面支援のもと、行うことができました。その中で、支援いただいたお礼を兼ね、岸和田市立産業高等学校へ訪問、交流会を持つことができました。
学校は、平成24年1月に石巻市日和山にある石巻市立女子高等学校の校地内に仮設校舎が完成。全校が1つに集まり、不自由ながら平常の学校生活を取り戻しつつあります。
現在、渡波にある被災した校舎は震災がれき置き場になっています。
8 結びに
いつも「自分は被災者なのだろうか?」考えるのです。たしかに被災地には住んでいます。でも、私自身には被害はありません(車一台と若干の私物が唯一の被害)。しかし、震災を書き残すことは、被災地に生活し、震災を目撃した者の務めと思っています。
予定よりも長文になりました。私の出した1通のメールからこの場を与えていただいた武蔵高校同窓会の皆様には感謝申し上げ筆を置かせていただきます。